穗積老先生 不朽の功績を憶ふ
鳩山秀夫
(法学博士)
No.458(大正15年5月)号

 穗積老先生の日本法學の進歩に對する功績は、二つの方面から考へられると思ふ。一つは法典編纂における先生の業績であり、他の一つは法律學そのものに對する學的寄與である。法典編纂の方面では、先づ何よりも日本民法の編纂に先生の多大の力を致されたことを擧げねばなるまい。わが國では明治二十年に佛人ボアソナードに命じて民法草案を起草せしめたのであるが、出來上つたものは佛國民法の模寫に過ぎないものであつた。それゆゑに明治二十五年の五月及び六月に第三帝國議會に際して、院の内外に、民法典施行延期論が起つて斷行論と争ひ、遂にこれを制して民法商法施行延期法案は兩院を通過した。先生はこの時延期論の急先鋒であつて、その後出來た法典調査曾に、富井政章・梅謙次郎兩先生と共に起草委員として、今日見る如き民法の草案をつくられた。わが國の民法が、外國の模倣に捉へられず、完全とはいひ兼ねるが、ドイツ、フランス、スヰツツル等の民法を參照し、日本固有の舊慣を考慮して、今日の民法が施行されるに至つたのは、先生の最も大なる功績に歸せねばならないであらう。その他、先生は法制審議會に總裁として、諸法典の編纂に、なかんづく、信託法、陪審法等の如きに力を盡されてゐることをも忘れてはならない事である。

 法學への學的貢献といふ方面では、法學の研究範圍を廣くせられたといふ功績がある。明治初年の帝國大學の法律學は、主として英米法によつてゐた。先生は英國に留學されたのであるが、歸途にはベルリン大學にも學ばれ、法律を修めて歸朝せられた。歸朝後は勿論英米法も講ぜられたが、それ以外の外國法をも研究教授せられ、偏狹に陷るの弊を救はれた。また先生の研究方法が、沿革的、比較法的で、しかして法理學的であることも特筆すべきことである。それは先生の著書である「隠居論」「五人組制度論」や「祖先崇拜と日本法律」などにも、また先生が今から二十二年前、アメリカの萬國學藝博覧會で講義をされた“Lectures of the New Japanese Civil Code”や、その畢生の大著とされる法 律進化論にもその學風をうかゞふことが出來る。

 先生の研究方法のうちで、最も顯著にあらはれてゐるものは、進化するものとして法律を觀察する法理學的の見方がそれである。この點では、三浦周行・中田薫博士等の純歴史派の人々からは、往々史實に違反する事例を引用してゐるとして、反駁される事もあるが、これは法學研究のメトードの差異から來るもので、そのために法理學者としての先生の價値に毫も影響を及ぼすものでないことはいふまでもない。

 先生の著「祖先崇拜と日本法律」は英語には勿論、伊、獨の二國語にも飜譯されて、海外の法學研究に貢献すること甚だ多い。先生終生の大業とされてゐた「法律進化論」は、僅に原形論の第一、第二の兩巻が出たのみで、未完成のまゝで残されたのは、學界にとって最大の遺憾事である。「法律進化論」の先生自序の文には、「今や齢すでに古稀に達し、老耄將に至らんとするに及んで、全部六巻の計畫中、僅に第一部の上巻二冊だけを公刊し得たる如き遲緩なる功程にては、生前に於いて計畫の半ばを成すことも不可能かと想はれて、今更過去の怠慢を愧ぢ、又立法事業等のために純學業にカを専らにすること能はざりしを悔い、徒に日暮れて途遠しの嘆をなすのみである」 といはれてゐる。その篤學なる一面を仰慕するに餘りあるであらう。

 先生が大學に教授として居られた頃、法理學を講義せらるゝ傍、希望の學生の爲に特殊の研究事項を與へて、毎週法理學の演習を開かれ、又卒業後の者の爲には私財を擲つて法理研究曾を起された。此の法理研究曾は毎月一囘講演研究曾を開いて、數年前既に創立二十年の祝賀曾を催した。先生が法理學の研究の爲に又後進指導の爲に最善の努力をせられたことは、この一事を見ても明であらう。此法理研究曾に於て先生が如何に萬事に細心の注意を拂はれたかを知り得る一事がある。それは先生と此法理研究曾との間の個人的關係を切り離すことに努力せられて、法理研究曾の永く繼續すべき組識を作られたことである。先生の此の御用意あつた爲に今後も法理研究曾は毎月の議演研究曾を繼續するであらうが、之れも先生を偲ぶかたみの一となつて仕舞つたことは此上もない悲しみである。