故穂積男爵を懷ふ  
澁澤榮一(子爵) 大正15年5月(458)号
 

 穂積男爵の逝去に付各方面から深く哀悼せられることは、厚い親戚の一人として自分自身にこれ等のお言葉を受けるやうに思はれ、深い感じを持つ次第であります。先般重遠が「斯かる有様を死なれた親に見せたい」と頻りに申して居りましたが、私は丁度反對に、死んだればこそ斯様な有様を見るのである、と云ふ喜びを感ずると共に、死なれたことを殘念に思ふ情が厚いのであります。 是は言葉を異にして情を同じうすると申したらよいかと思ふのでありますが、穂積の不幸は洵に意外であつて、何とも老人の私が茲に申上げる言葉はありませぬ。故人と私との間柄は、殆ど50年に近い関係でありますから、單に親戚としての情愛ばかりではないのであります。私は學問のない人間でありますが、故人は何處までも學者であります。故に互に從事する處も異つて居、又性格行動も全く相反すると迄は申しませぬけれども大に趣を異にして居ります。
  然し又或る點に於ては、意見が全く一致して居たと云ふことも申すことが出來ると思ひます。私は亜米利加人と會ふと、よく申すのでありますが、亜米利加は民國、日本は帝國、亜米利加は廣い、日本は狹い、亜米利加は富んで居る、日本は貧乏である、斯く數へると全く相反する國のやうであるけれども、正義を重んじ、人道に依つて世の中に立たなければならぬと云ふ點に就ては、符節を合するが如くである、と云つて能く話をするのであります。
  私は甚だお恥しい事を申すやうであるが、穂積の不幸があつた爲め、初めて穂積が左様な學者であつたと云ふことを知つたのであります。迂論な申分であるが、今更ながら穂積はそんな學者であつたかと思つたやうな次第で、丁度私は我家の物であるから、その總茱が甚だ甘くないと感じて食べて居たやうな心地が致します。私は穂積を學者と思はぬのではないが、左様まで鄭(奠)重な考を持たなかつたのは、實に残念千萬な話であつて、是こそ穂積が存在して居れば大に考を變へたいが、今や既に亡し、斯く申さなければならぬのでございます。

 自己の家事に就て喋々するのは甚だ相應しからぬが、併し左様な學者であつた故人を私が最も専らにした一事があるから此事を申述べたい。それは何かと申せば、私の微々たる家庭の家法のことであります。
  私は東京に出て始めて家を持つたから、家庭は新組織であります。此新組織を好い工合にして相爭はず、相競はず、相和して進んで行きたいと云ふ考へでありました。その爲には準據する所がなくてはならぬ。此等の事は専門の人に賴まざるを得ないので、穂積と親戚関係を結んでから4、5年經つた多分明治20年頃であつたと思ふが、共事を故人に相談しました。穂積は綿密な又事理明白な性質であるから、種々に考案し、24年に至つて家法が出來たのであります。それは今も尚存して一同此に依り維持して居るのであります。蓋し家庭は至つて微々たるものであるけれども、其の法律は左様ではない。穂積の事を段々と承るにつけ、何やらん私の家法なるものが更に尊くなつたやうな心地がするのであります。斯様に考へると私は大變な幸福な者だと申し得られるやうに思ふのであります。

 一木博士は或る追悼會の席上、故穂積は、丁度自分に代る子供を遺して死なれたので、眞に後ありと云ふべく、此點では死んで憾はなかろうと云はれましたが、果たして然るか、然らぬか、私が保證の限りではありませぬ。只一木博士の此の御言葉は別して喜んで承つたので御座います。司馬温公の家訓に、「積金以遺子孫 子孫未必守。積書以遺子孫 子孫未必讀。不如積陰徳於冥々中 以爲子孫長久之計。此先賢之格言 乃後人之亀鑑也。」と云ふことがある。

 故穂積は決して金は積まぬが書は積んだ。然し讀む讀まぬは第二に置いて、幸に父に肖たる子と十分鑑識あるお方が御批評下さのる、又親戚たる私共も或は然らんと思ふのは、是は故穂積として死して餘榮ありと申して宜からうと思ふ。所謂、積善家と或は言ひ得るかも知れないのであります。

(子爵)