但馬地方の震災に就て  
東大教授理學博士 今村明恒 No.450号(大正14年9月)

 今夕は但馬地方の震災に就て御清聴を汚す次第で、甚だ光榮に存じます。猶只今中村理事の御紹介の通り、私の話の後で東京日々新聞社の實寫活動寫眞がある相ですが、それを見る上に於ても前に大體の話を申上げれば、實地を見る思ひもあることと存じます。それで活動寫眞の説明をも兼ねる氣持で御話致しませう。

 一昨年關東の大地震をしみじみ經驗した人々にとつては、此度の但馬地方の地震を直ちに一昨年のそれと比較して見ようとなされます。それ故私も大體は一昨年の關東の地震に比較して今度の但馬の地震のことを申し上げませう。今囘の地震は一昨年のものとは頗る相違して居ります。第一、地震計で勸測した結果だけでも相違が甚だしい。實地に彼の地方を廻つでも如何なる順序で家屋が壊れ、震動を感じたかは地震計に依って得た勸念をたしかめるに過ぎないのであります。一昨年の大地震は極めて廣い區域で起つたものでありましたが、其餘震の區域たるや相模は勿論、甲斐・上總・下總・安房・武蔵・常陸の諸國より南は三宅島迄ひろがりました。一昨年の地震ではそれのみならず、地震動の期間も長く、震原近くで最も烈しい時間は数分又は10分、少くとも3・4分は烈しかった。東京でも初期微動12秒餘、主要部4・5秒位の後最も強く、其後次第に緩漫になり1・2分3分の間に最大の地動が現はれ7・8分續きました。然るに今度の但馬の地震は此點では大いに違ひます。震災の區域は狭く、豊岡から海岸迄4・5里、東西2里の間であつて、最も烈しかつたのは丸山川の河口を中心として2里位の半徑に含まれて居ます。豊岡では潰れ家の割合が2割5分位であります、是は地盤が北部と西部とに於て悪かつたのみならず、家屋の特殊な構造法の爲めであります。震原地を外れてゐる城ノ崎は烈しかつた。潰れ屋は火事の前に5割程あった。瀬戸・津居山等は7割、 田結 [ たい ] は第3紀層にあり乍ら9割である。恰度一昨年の小田原に相當する潰れ方であります。然し要するに僅か2里の半徑内に最激震區域は合まれてゐますから、關東の地震に較べれば狭いと申さねばなりません。然し此の地方は地質年代は古く、第3紀層が新らしい位であります。も少し南には花崗岩、その間には火成岩が露出してをります。丸山川の右岸に玄武洞があります。第3紀時代に [ くるい ] 日山からbasicなmobileな鎔岩が流出で川を踰えて擴がつたらしい。そして永い年代の間に川の流が次第に其中央を削磨して、今日では川の右岸には僅に玄武洞として小區域が殘つてゐる。東京下町の樣な沖積層は豊岡の周圍又は丸山川の縁に過ぎず、合算して1里平方の締高に達するに過ぎません。こんな地質の處では地震勢力が著しく現出しますけれども、然し堅い地盤は勢力をabsorbし得ないので、殆ど此處を通り抜ける樣にして其先きの方へ震動が擴がります。即ち大阪では震原から30里隔つてをつて最強震動を3糎の全振幅を有して居りました。めやすが異へば勿論狹いですが、叉見樣に依つては比較的に廣いとも云へる。餘震については、實地調査の際地震計を持ちませんでしたから、器械的に計測することは出来ませんでしたが、餅屋は餅屋で私共の身體は地震計の4半分の役はつとまります。初期微動の繼續時聞から震原との距離を知り、鳴動の方向から震原地がわかります。ですから我々の樣なものが2、3人同時刻に數ケ所で體験したことを報告し合へば大體わかります、最初の此地震の東京觀側では初期微動が62秒程續いて後に起り、比較的急な2、3遍の往復震動の後11秒といふ樣なのろい波動になり、人の感覺にはのぼらないものになりました。又、城ノ崎の人の話によりますと、始め強い上下動を感じ、2、3秒の後12囘の急な往復震動の爲めに旅館の約半數は、4階3階建は勿論2階建も平屋も潰れましたが、10秒を經過した頃には地震の感覺がなくなる程に納まつてしつまた。竹野では橋の眞中にゐた人が地震だと云つて岸に逃げ出し、よろけ乍ら20間程向ふの岸へ馳け出したが岸へ行きつかないうちに地震は止んでゐたといふことで、極めて簡單な地震でありました。

 震災地の調査上興味ありますのは、簡單な建築物迄が大移動をしてをることであります。鐘撞堂・水屋・山門を始め人家としてはちいさな屋根の輕い草屋又は潰れることのない丈夫な簡單な建物が大移動をします。かの濃尾の大地震のときには根尾谷金原村の山門が3尺もゐざり、一昨年の關東大震災では、小田原の親樂寺の2間4方の小屋が3尺滑り出し、小田原停車場限近は4尺から2尺位もずつてゐる家屋が數多ありました。今度の但馬地方のは不思議なことには前の大地震の例で見る如くに破損することなくしてずり出してゐることであります。移動した藁屋は全で變化せず、又土藏には亀裂を見ませむ。之は水平動と共に上下動が起つたためであります、即ち上方動の加速度が建物に働いてゐるうちに下方動が斜めに起るとすれば、建物は空中にとり殘されて地面がずつてしまふのです。即ち建物がずるのでなくして地面が移動するのです。同じ水平動だけなら反對の方向に行くものが出来る筈です。大正3年3月12日の秋田の地震で、震原地から30里もはなれてゐる鑛山學校の敎室のテーブルがもとの位置を中心に水平に左右にづれて、今でもリノリウムに机のあしあとがありますが、これは水平動丈の働きと思はれます。然し但馬の地震の移動の最大なるものは僅に5寸ですが、今申した樣に土藏にひゞなど入りませぬ、全く避震をやつてゐたわけで、所謂肩すかしの法とも申すべきでせう。私は建築家に向ひ、家屋耐震の考案の外に避震の考案をやつたらどうかと提議したことがあります。今囘の如き簡短な急震動では、鐵筋の建物に對する主な影響は亀裂が這入ることであつたでせう。然し此地震動の性質が單純なことと長いこととに就ては、尚耐震構造の上に充分の注意を要する。

  豐岡町の家の構造は、地震に對しある方向に對してのみ耐震力があります。間口の方向には2間でも3間でも柱を立てずにゐるのに、奥行に沿うた壁には3尺置きに往を立て、堅2尺置きにはぬきをさして楔でとめてゐます。ですから奥行きの方向にとつてはこれ程嚴重なものはないと同時に、之に直角な間口の方向は全然耐震力はありません。豐岡の町は丸山川の左岸にあります。停車場前通りは東西に通じて居まして2階建の家が續いてゐます。それで間口が地震動の方向と一致してをりますため、この2階建は全部西に潰れてしまひました。然るにたまたまこの町の通りに直角に建てられた家は自若たるものであります、之は實地踏査の方々の誰も氣付く不思議な光景であります。構造上の特徴が明らかに證示されたわけです。豐岡は火災が2ケ所ですぐ始まりましたのを甘く揉み消したのでしたが、凡そ2時間後郵便局の隣から始まりました。然るに油斷して消防隊が解散して居たので、火災は猛烈な勢でひろがりました。やつと再度の召集をした消防隊はもはや町を通れず、河を船でまわつて消しにかゝつた樣なわけでした。もし豐岡に火災が起らなければ、被害の大部分は停車場前通りの2階屋のつぶれ家屋が主要部で、其外には多くたかつたことでしたらう。城ノ崎では第3紀層の谷の中に温泉が6つあります。その地層の上に、建てた家は無難でしたが、川筋のは大半がつぶれました。城ノ崎740餘戸の中490戸燒けまして、230人死にました。全然つぶれた家は2分の1程度のものであつたらうと推測されます。豐岡は1400戸、即ち町の3分の2の戸數が燒けました。津居山は北部の3分の1は全燒し中間の3分の1は大破、南部の3分の1が小破損で残りました。總體で申しますと今囘の損害ほ家屋(潰れ家、燒失共)3300戸で死者395名、鐵道の損害20萬圓等であります。城ノ崎温泉の旅館の損失が金高では最も多く、次に豐岡が3割にあたりまして、金高に見積つた損失全體は3000萬圓程度のものでありませう。

  玄武洞は大した異状がありません。洞の外の壁が落ちた位です。あれは火成岩が急に冷却したものであります。恰も六角往で屋根を支へる樣な亀甲柱状の節理があります。玄は黑、武は亀甲の義で、德川時代に柴野栗山が名付けたものであります。之を踏襲して地質學者は此種の岩石を玄武岩といひ、英語のBasaltの譯語にしてあります。

  今回の地震は何處から起つたか。それは豐岡の地震計、京・大阪・神戸の觀測でもわかります。又被害地の實況からもわかります。殊に著しき地變が震原を指示します。私は丸山川の川下だらうと思ひましたら、果して川口の右岸に當ります田結部落の丘の上に斷層が現はれて居ました。

  田結の南方なる 氣比 [ けい ] にあらはれた長い地割からは數日間湯が湧出したさうです。これはTextotnie causeによるものでありませう。普通の亀裂は泥水が出る位のものです。田結斷層に於ては ずれ [ 、、 ] が最大1米に近く又水平にもずれてをります。これらは大地震の原動力が地下幾粁の時間で働き、その影響が地面に表はれたのでありませう。津浪はなかつた樣子ですが、海軍水路部の實測では津居山港に近き [ あと ] 島が5尺程沈んだ樣であります。が此は別に原因があるらしく、先づ海底に於ては關東大地震に現はれた樣な地變は全く無かつたらしくあります。

  此度の地震には何か前兆はなかつたか。之には温泉の異状や前後の比較をしなければなりません。私は城ノ崎の6つの温泉につき温度の變化の有無を調べて見ました。生憎組合の以前からの記録が燒失したのでしたが、組合中でよく前のことを記憶してゐる掛りの方に尋ね、一方私の寒暖計で現在の温度を計つて其記憶と比べて見ましたが、殆んど異状のないことがわかりました。湧出量は計測しませんが、温度に異状ない限り變化なきものと認めてよいと思ひます。要するに城ノ崎の温度には異状がありませんが、此は城ノ崎の復興に付、最も仕合せなことでありました。

  豐岡の神戸海洋氣象臺出張所では一月前から土地の傾斜が計測された旨新聞に報ぜられてゐました。抑々大森博士は大地震前に土地の傾斜の起るべきことを信じ、自己の地震計で傾斜をはかる外に、傾斜計なるものを作って觀測を續けました。然るにそれは頗る敏感なもので、大學内に於きましては御殿の池の水の增減にも感ずる程でした。一昨年の關東の大震災の時は、傾斜の前兆がよくあらはれなかつた。震原地方ではあの大地震の數年前から土地が目醒ましく隆起しつゝありました。故に地震計がもつと震原に近い所に設置してあつたら直ぐにわかつたらう。併し、但馬地方地震前に傾斜が記録されたとは、地震計が氣温特に日射の影響による誤りであつて、土地の傾斜ではない樣に存じます。

  次に但馬地方の地震帶のことを申しませう。今囘のととは地震學の好い實習になりますから、東大地震學科第2學年4名、第1學年4名をも震災地に伴ひました。然るに城ノ崎では町民から嫌味をいはれたと言つてこぼして居ました。即ち大森先生が一昨々年城ノ崎に講演せられたとき、城ノ崎町には絶對に大地震がないといはれた。其『絶對に』といはなければ今囘の樣な目には合はなかつた、もつと震災の豫防をして置いたらうに、といふ樣な意味なのであります。私もおやぢの借金を息子が拂う氣で色々辯明しました。抑々慶長以後我邦に於て大地震の記録がない國々が、上野・飛彈・但馬3ヶ國と隠岐島であります。而して歴史上には、允恭天皇5年大和大地盤以來1度も地震の記録のない國がたつた3ヶ國、即ち但馬なのであります。それ故、但馬は過去に於ては有史以來1度もなく絶對に安心であつたとは云へますが、將來に向つても絶對に地震はないといふのは言ひきり難きことであつて、大森先生が、嘗て餘部鐵道橋の震動調査をせられる時、城ノ崎を根據にせられた時分の講演で、先生が此の『絶對に』と言はれたかどうか分りませんが、町民一般に不安の念を起させてはならないといふ考へはあつたことと想像されます。山陰地方の地震記録は次の如くであります

  紀元1676年(延寶4年6月2日)石見に大地震あり。津和野で7人の死者130軒の倒潰家屋ありました。山陰は地盤が好いから地震の大さに比べて被害は輕いのであります。

  次に1711年(正德元年2月1日)美作・因幡・伯耆の國境で地震あり。500軒潰れ死者4人あり。

  安政元年11月4日に東海道沖、5日に南海道沖にあつた。

  安政4、5、6年つゞいて石見に強震あり土藏の壁がくづれて落ちる。

  明治5年濱田に大地震がありました。明治年間最初の大地震で、潰れ家4761で552人死にました。この日は地震に先立って、日本海は潮の干満の差が普通1尺2寸5分なのに此時は一尋も潮が引いたので、濱の一丁沖にある鶴島の根まで渡れて、取り殘された魚や島の岩礁について居る鮑までが手捕りにされたが、年寄りの漁師はこれは津浪の前兆だから丘に逃げなさいと忠告しました。處が津浪の來ない中、即ち引潮から30分程してから大地震で、更に其後20分位で津浪が押し寄せました。又その附近5里程の沿岸は78尺乃至12尺の隆起があり、稀には沈下した處もありました。大體地震の進行は南西から西北に向ふので、山陰地震帶は遅鈍乍ら活動を止めないのであります。されば此關係からして、『但馬は將來大地震に絶對に安全だ』とは言へなかった筈であります。

 最後に申上げたいのは、震災にともなふ火災の被害であります。豐岡といひ城ノ崎といひ震災の主なるものは火災にあつてゐます。關東の大地震で我々はこの苦しみを充分經験したのでありますが、かくの如く地震のある度毎に火災を繰り返すことは、外人に對しても日本人の訓練の底を見透かされる樣な氣がしてなりません。然るに今度踏査して此點に關して意を強うしたのは、斷層のあらはれた団結に於ける状況であります。そこでは81戸の中75戸倒潰しました。恰度炊事にとりかゝる時刻で、しかも養蠶の時期ですから蠶室に火が入れてあつたので、80幾戸の中で3ケ所から火があがりました。故に潰れ家を逃れたものは皆火の揉消しに取掛たのであります。それに成功した後、始めて人命救助に取掛つたのであります。故に十幾棟の倒潰家屋のうちでわづか7人の死者を見たのみでありました。田結は最も激烈な地震動を受けた村落なるにも拘らず、比較的に秩序整然たる處置をなし、救護品を最初は斷つた位ださうであります。是にはわけがあつたのでした。即ち20年前とかに火を失して一村落消失したので、火の用心を非常に八釜しくやつた。こんな僻邑にも拘らずガソリンポンプが1臺あります。また女消防隊が組織されてゐます。實際地震のときにはこの女子までも活動したのでありました。私はひそかに、かゝる周到な訓練が日本各地に行きわたれば、震災亦さほど恐るゝに足らずと思ふのであります。拙き講演の末尾に田結の人達の用意を述べて、あまねく江湖に示す所以であります。

  これで話は終りますが、御清聽を得ました御禮を申上ます。(拍手)