今後の地震  
理學博士 今村明恒 大正13年1月(430)号

 今度の大地震以來、東京は再び大地震に見舞はれることはないか、大地震を免れるには何處に行つたがよいか、關西に移るのが却て安全ではないか。かうした質問を受けることが少くない。空前の大地震に慘憺たる被害の有樣を見た人が再度の大地震の襲來に怖れ、豫め安全地帶に避難したいと思ふは人情であり、かうした質問の起るのも無理ならぬことと思ふ。併しかう云ふ質問を受ける毎に私は再び大地震に遭ひたいと思ふ方は關西方面にお行きなさい。地震に遭ひたくない方は東京に殘つておゐでなさいと答ふるを常としてゐる。

 私は今後當分の間、東京には今回の如き大地震は來ないと信じてゐる。之に反し強いて今後の大地震の起るべき間隙を探すなら、大阪附近がその一ではあるまいかと思ふ。同地方の地震帶の沿革から考ヘて私はそんな氣持がするのである。併し地震學が未だ幼稚な爲に、それが何時起るかは想像がつかぬ。或は百年を經ても起らぬかも知れぬが、兎も角大阪は東京より地震に襲はれる可能性が多いからである。之を説明するには地震の原因から歴史地震を觀察し、東京と大阪とに於ける大地震の有無を研究せねばならぬ。

 地震の種類と其原因 地殻が何かの原因によりて衝動を起す時、その衝動が波となりて地殻の上下四方に擴がる。之が地震と云ふ現象である。元來岩石は之を壓縮すれば一時縮まるけれども、同時に之を反撥する力を現はすものである、岩石にこの彈性ある故に衝動を受けるとき、縱波を起す。又岩石を捩るとき、幾分か捩られるけれども、同時に之を捩り返す力がある。岩石にこの剛性ある故に衝動によりて橫波を生ずる。縱波の傅はる速度は岩石によりて多少の相違あるも、通常の近距離地震の場合には約毎秒七キロメートルであり、橫波の速度はその半分位である。故に地震の場合に第一に感ずるはこの縱波で、速けれども小であり、次に感ずるは橫波で、遅けれども大である。前者が初期微動と名づくるもので、後者が所謂地震の主要部と云ふのである。

 地震には種々の種類がある(一)火山地震 火山が爆發し又は爆發せんとする作用により起る地震で爆發に伴ふて起るものを陽性火山地震といひ、爆發するに至らぬも爆發すると同じ作用で起るを陰性火山地震と云ふ。併し我國には此種の地震が極めて少い。(二)陷落地震 大地下水の作用により水に溶け易い鑛物が溶解し、地殻の内部に空所を生じ、天井の地盤が墜落するときに起るもので、明治三十二年有馬温泉の地震はその一例であるが、我國には極めて稀有である。(三)普通地震 我國に於ける大多數の地震は以上の二者以外のもので、私等は之を普通地震と呼び、或は斷層地震又は地辷地震とも呼んでゐる人もある。

 地球の表面は大氣の温度と異らぬ位に冷へてゐるが、地殻の内部は相當の熱度を有し、五十五米突を下る毎に一度づつ温度を加へる。然るに地殻内部に加へられた地熱の發散によりて内部が冷却し、從つて又收縮する。收縮するが故に内部に間隙を生じ、外側の地殻はそのまゝ不安定の位地に置かれ、平均を保つてゐるが、或動機によりてこの不安定不平均が破られ、地殻が安定の位置に落つくとき、その活動が地震となつて現はれるのである。而して不安定の平均が破らるゝ場合地殻の一部は他の地殻の下に落込む故、地表の一部が陷落すると共に、他の一部は隆起するのである。

 地震と兄弟關係の日本 併し大地震は地球上の何處にでも起るものではない。過去に於て大地震を起した區域を地圖に印づけると、そこに一の細長い地帶が接續される。これが所謂地震帶で、地震はこの區域内に起るのである。いま地震の起つた年代、位置を調べると左の如き事實が歸納される。
 (一)地震は地震帶上に起ること。
 (二)地震帶上の一ヶ所に大地震が起れば、次の年代にはその隣接地に順序を追つて移つて行く。
 (三)例外として或大地震が順序を追はずして飛び離れた場所に起つた時、中間の空隙は容易に他の大地震に因つて塡補される。
 (四)一度地震帶に見舞はれた所は數百年間大地震を起さぬこと。
 然らば我國に於ける地震帶は如何と云ふに、最も著明なものが二ある。(第一)は外側大地震帶である。この地震帶は北はアリユーシアン群島より千島列島に沿て走り、本州の沿岸を南下し、岩手、宮城邊は四五十里の沖合を過ぎてゐるが、又陸地とすれすれに接せるもある。而し四國の南より臺灣ヒリツピン群島に連り、南洋諸島よりニユージーランドに渉り、遠く南米に通じてゐる。而してアリユーシアン群島に通ぜる地震帶はアラスカより米大陸に入り。その脊髄に當れるロツキ大山脈に連絡し、中米を過ぎ進んで南米のアンデス山脈に連り、南洋より來たものと相連絡し、恰も地球を兩斷する線をなしてゐる。即ち外側大地震帶は世界的大地震帶の一部を成せることが分るであらう。地質時代に於ける大斷層により太平洋側が沈降したとき我日本はその反作用によりて隆起したものである。從つて我國は地震とは先天的に兄弟の關係を有つものと云はねばならぬ。

 第二の地震帶は内側地震帶と呼び、北は北海道利尻島邊に起り、南して有珠、樽前、駒ヶ嶽等の火山地方を縫ひ、靑森、弘前地方を橫ぎり日本海に出で略同海岸に沿ふて山陰道の沿岸を走り、九州北部に達するものである。

 以上の二大地震帶の間に介在して本州を橫斷する支脈がある。その著明なものを擧ぐれば、
  霧島火山地震帶 阿蘇地震帶 豊後水道地震帶 瀨戸内海地震帶
  淀川筋地震帶 伊賀伊勢美濃地震帶 信濃川流域地震帶 江戸川東京灣地震帶 等
があり。この他に低級なものとして甲斐相模地震帶、富士箱根、伊豆七島を連ぬる火山性地震帶がある。

 東京に近く大地震なき理由 過去に於て東京に大地震を起し、將來又起すべき地震帶は前述したる外側大地震帶と江戸川東京灣地震帶の二である。前者は房總半島の沿岸より伊豆半島の南端に近く海底を走れるもので世界的大地震帶の一部である。後者は江戸川より東京灣に至るもので、共に東京に對し大地震を起した歴史的關係を保つてゐる。今此等の地震帶に於ける大地震の發生を順序に見るに、
▲江戸川東京灣地震帶に於て起つたものは、
 (一)慶安二年(一六四九年) 品川川崎邊の地震
 (二)文化九年(一八一二年) 神奈川程ヶ谷邊の地震
 (三)安政二年(一八五五年) 江戸地震(震源地金町龜有方面)
 (四)明治二十七年(一八九四年) 東京地震(震源地鴻の巣桶川地方)の四大地震がある、此等の地震はこの地震帶に於ける活動の勢力を消耗したものと認められ、從つてこの地震帶から當分大地震を起すとは思はれてゐない。
▲外側大地震帶に於ては、
 (一)元祿十六年(一七〇三年) 房總の東海岸に於ける大地震
 (二)安政元年(一八五四年) 十一月四日駿河沖に於ける大地震
の二大地震があつた。かくしてこの大地震帶の北東の延長部と西方延長部とには既に歴史地震によりてその安定を保つに至つたに拘らず、その中間たる相模の沖合に相當する部分が未だ歴史地震に占有せられ居らぬを想ひ、私は他日ここを震源とする大地震が東京を襲ふべきを懸念して居つたが、然るに不幸にして今回の大地震を見るに至つた。九月一日の大地震に際し私はそれが江戸川東京灣系に發したものでなく、直覺的に自分の豫想した所だと考へたが、記象紙を取寄せ熟視すると、果して震源は伊豆大島 東北に當る海底で、明に自分の豫想に裏書してゐたのである。即ち今囘の大地震は前記元祿安政の二歴史地震の震源地の間に介在した空隙を塡めたものであつた、かくして東京を地震區域とせる外側大地震帶も、江戸川東京灣地震源も、共にその活動を一巡し、その蓄へたる勢力を消耗したのである。この他に少しく隔つた地震帶上に於ては北東の方で本年六月二日に常陸沖の地震があり、また西の方では安政元年十一月五日(駿河沖地震の翌日)に紀淡沖の大地震があり、大抵勢力を消粍してゐるやうである。假りに一歩を讓つて尚餘力を存するとしても、それらは何れも東京よりの距離が隔つてゐるから被害がないと思はれる、從つて私は當分東京に大地震が起ることはあるまいと推定するのである。

 更に近き将來に於て東京に大地震の起るか否かを研究するには過去の歴史地震と比較して觀察するが必要である。今囘の地震は外側地震帶に發したので、元祿十六年に起つたものと同じ地震帶に屬し、江戸川系に發した安政二年の地震と異るのみならず、其性質にも亦かうした異同がある。元祿十六年の大地震は十一月二十三日午前一二時半頃に起り、武藏、相模、安房、上總諸國の被害が最も甚だしく、續て津浪が襲ひ來り、鎌倉、小田原の沿岸、房州、上總の夷隅郡等被害多く、潰家、死傷者頗る多く、餘震の囘數も亦非常に多くあつた。之によりて江戸を中心とした半徑四五十里に渉る區域の地震勢力を消耗し、爾來百五十二年間江戸は地震の跡を絶ち地震的に太平を享けたのであつた。強ひて此間に於ける江戸の地震を求むれば元祿の地震の後、四年目の寳永三年九月十五日に相當の地震があつた位である。而もこれは江戸城の石垣を破損した程度であつて、その他には大地震とすべきものがなかつた。蓋し元祿の大地震は單にその震源地のみならず、附近の地震帶に於ける不安定の位置に刺戟を與へ、それが多數の餘震となつて現はれ、一年間に江戸に波及すべき各方面の地震勢力を吐き出し消耗したのであらう。

 爾來江戸を中心とした震帶は徐ろにその新しき勢力を蓄ヘつゝあつたが、安政元年十一月四日駿河沖に於ける大地震は、既に多少の勢力を蓄へてゐた江戸川系の地震帶に刺戟を與へたが、震源地が遠く隔つてゐた爲に、直にその影響を受けず、一年後に安政二年十月二日の江戸大地震となつたのである。言ひ換へれば安政二年の大地震は地震帶に勢力を蓄積してゐたものに對し、駿河沖の地震が刺戟を與へて動作させたのであるが、元祿の大地震は多數の餘震と相待つて附近に於ける地震帶上の勢力を消耗し、この上刺戟を與ふるも地震を起す勢力を失はしめたのである。今囘の大地震は元祿十六年の場合と同じく餘震の囘數非常に多く、而も餘震の重なるものにつき震源を調査したるに、二日午後二時二十分の地震は震源の方向南東、距離は十里で、東京に近き灣内に起つたものである。又同日午後十時三十九分に發した地震は距離四十里、火山性式で、震源を三宅島附近と推定した。これらの餘震は隣接した他の地震帶の不安定状態が九月一日の大地震に刺戟せられて起つたものである。この他の餘震中にも他の地震帶で今囘の大震に刺戟されて起つたものがある。されば今囘の大地震は過去の歴史地震と相待つて東京に地震を起すべき地震帶の活動を一巡し了つたのみならず、大地震の刺戟により既に多少蓄へられた地震勢力を餘震として消耗せしめたのであるから、今後の東京は元祿大地震が百五十二年の地震的太平を保つたと同じく地震的に太平を保つと思はれる。只それが百五十年の久しきに及ぶか、或はそれより長きか若くは短きかは今之を斷定することは出來ないが、兎も角も當分の間東京は大地震に見舞はるゝことはあるまいと思はれる。
(尚ほ今後の地震につき僅に一二の例を以て将來をトするは極めて早計であるが、本論は安政年度の場合を比較に取りて將來を云爲する人あるが爲めに、其不當を説き、若し比較に取るならば寧ろ元祿の場合を取るべきであるを論じたに過ぎない)

 地震の豫知 東京は近く大地震に見舞はるゝ懸念がないとすれば、次には何處が襲はれるか。前に述べた如く日本は地震と兄弟の如き關係を有する國であるから、何れの地とても全く地震襲來の惧がない所はない位である。併し中に就て近く地震の起るべき懸念の地方は何處にあるか。

 地震を豫知することは、之を時の豫知即ち何時起るであらうかと云ふことゝ、場所の豫知即ち何處に起るであらうかと思ふことの二に分けて見ることが出來る。而して何處に起るであらうかと云ふ事は調査も稍々進み研究も学ばに達してゐる。即ち地震帶の問題である。而して場所の豫知がついた以上、地震が何時起るかを研究することも出來やう、時の豫知に付ては大氣の壓力又は雨量、土地の高低、水準の變化、前震、地殻、潮汐の異状等參考として研究すべき材料いくらもある。此等に對しては特別な装置をなし、大地震發生前に微細なる變動とも認め得べきものをも悉く研究の材料とせねばならぬ。之が爲には觀測所を設立することも必要であり、又觀測に從事する人材を養成することも更に必要である。日本は過去五十年間歐米で文物を輸入し、その惠澤を受けながら、未だ何等之に對して酬ゆる所がない。日本は世界に於ける地震國である。地震の研究に於て大に發達するを得ば、世界の文明に對する報恩の途も開かれることゝ思ひ、この點に對しては今回の大震災を機として朝野識者の奮起せんことを祈るものである。

 大阪方面の地震 そは兎も角として場所の豫知上に於て考へて見たいのは大阪附近である。大阪に大地震を波及せしむる地震帶は次の三がある。
 (一)外側大地震帶
 (二)濃尾伊勢伊賀大和より阿波に連る地震帶
 (三)淀川筋地震帶
▲外側大地震帶に於ける大阪の地震
 (一)寳永四年(一七〇七年)十月四日の大地震は元祿十六年の江戸大地震の五年後で、紀州沖に大地震津浪を起し、東海東山兩道に及び、土佐の沿岸には七八十尺の津浪が襲來し、大阪もその餘波を蒙り相當に損害を受けた。
 (二)安政元年(一八五四年)十一月の大地震 同月四日駿河沖の大地震は東海道一帶に激震を來たし、大阪に於ても相當に搖れたが、翌五日紀淡沖に於て前日のに優るほどの大地震を起し、大阪に於ては西部に多くの潰屋を起し又安治川に津浪が侵入して東橫堀までの橋梁を悉く破壊し、莫大の流死人を生じた。

 以上の事實に徴しても外側大地震帶に起る地震が大阪に多大の損害を與ヘたことは明である。又大阪の地震は上記した如く元祿十六年の江戸地震後の五年目に起り、安政元年には駿河沖大地震の翌日に大地震があつた。又外側大地震帶に於ける近頃の例として明治二十七年三月二十二日根室沖に大地震あり、二年後の二十九年六月十五日には陸中の沖に非常な大地震を起し、餘震の數と陵地に感じた區域から見ても安政の地震に匹敵すべきほどのものであつた。たゞ震源が陵地より距離遠く、震源地に近き陵地が片麻岩であつた爲めに地震直接の損害は大でなかつたが、沿岸に於ては所謂三陸大津波を起し、死者二萬七千を出した。

 一體小規模の地震帶では大地震が隣り合つて次ぎ次ぎに起る場合が多いのであるが、外側地震帶の如き大規模の場合にはかう云ふ例は殆どなく寧ろ隣接地に大地震を誘起することは一兩日間に終るものらしい。而してこゝに例示したが如く、若し短い期間に第二の大地震が起る時は多くの場合、それが稍隔たつた場所に起り、而もその場所は西又は西南に移つて行く習慣がある。されば今囘の地震に次で何年かを經過した後に、第二の大地震があるとすれば、それは東京近くでなく、寧ろ稍々離れた處で強いて言へば關西方面ではあるまいかと想はれる。
▲伊賀、伊勢、大和、阿波筋の地震帶
 過去の大地震で不安定の位置は安定したので大阪附近に大地震を起す豫地はあるまいと思ふ。
▲淀川筋地震帶
 (一)慶長元年(一五九八年)閏七月十二日 伏見の大地震あり、地震加藤の劇として有名なもので、死者二千人。
 (二)寬文二年(一六六二年、前の六十八年後)五月一日 琵琶湖西南沿岸に大地震あり、死者五百人。
 (三)天保元年(一八三〇年、前の百六十八年後)京都附近の大地震あり、死者百五十名を出した。
 即ちこの地震帶に於ける地震は主として京都に起り、今後同地に大地震を起す餘力を存してゐないやうである。然るに大阪は過去千年間この地震帶に起つたと思はるゝ大地震の記録がないのを見ると、今後の大阪は多少大地震に對する不安の感なしとせぬのである。尤も假りに大阪方面に大地震が起るとしても、それが何時起るか、近く數年の中か、五十年百年の後にあるか或は斯く年諸を經ても起らぬか、そは不明である。不明でありながら今日に於て斯の如き不祥事を想像するは我國に於て最も重要な商業地が不幸にして東京の如き災禍に罹るとすれば、東京以上に悲慘な結果となるを虞るゝからである。同時に私は前に述べた時の豫知の爲に同地方に於て必要なる場所に豫知の調査機關を設け、地震そのものより起る被害を輕減することを希望する。

 地震災禍の輕減 大地震による災禍を輕減するは地震に伴ふて起る火災を防止する事である。從來の經驗によれば地震による潰家十一戸に對して死者一人の割合であるが、地震の後に火災を伴ふときは三戸又は四戸につき死者一人の割合に激增する。財産上の損害にしても單に家屋が潰倒しただけであれば家財の損傷は一部分であるが、火災之に伴ふときは財産を全燒し、人は僅に身を以て遁るゝに過ぎぬ。その災禍の悲慘なることは現に私等の眼前に見る所である。されば大地震は左まで怖るべきものでなく、眞に怖るべきは地震に件ふて起る火災である。三萬八千餘の生靈を犠牲とした被服廠跡の慘事は明に之を語つてゐる。

 地震の際に第一に注意すべきは火の元である。殊に今囘の如く時恰も午食時に當り家庭の火氣の使用多かつた場合に於ては避難よりも先づ火の元の注意を先にすべきである。平日から化學藥品の取扱保管に注意するは勿論であるが、火鉢、かまど、洋燈等より發火せぬやうにし、電燈は安全器によりて電流を遮斷し、而して萬一發火を認めた場合には、其大事に至らぬ前に隣保相扶けて之を撲滅するに努めねばならぬ。大地震の起つた場合には各方面に發火し消防手が間に合はぬのみならず、水道も多く枯渇するを以て各自が互に相扶けて大事に至らしめざるに努むることが必要である。然るに大地震の場合には地震そのものを惧れ、最も注意すべき火氣の消滅を忘れ、發火を認めても隣保相助けて消火するを思はず、避難に急なるが爲に先を爭ふて遁げ出し、通路幅輳、混亂に陥り、却て火足早き猛火に襲はれ燒死又は河川に投じて溺死したものが多いのである。大變事の場合、萬全を望むととは出來ぬとしても、平素より萬一に處する市民の訓練を要する所以である。

 地震の場合、成るべく廣き戸外に避難するが肝要である。この際狼狽せず、上述した火氣を消す注意を忘れてはならぬ。普通の日本家屋なれば倒潰するまでには相當に時の猶豫がある。又戸外に出づることが出來なければ、丈夫な机箪笥等の下に身を寄せるもよい。假令家屋が倒潰しても、家根裏を破つて遁れ出づることを得べく、梁の墜落により一命を喪ふが如きは寧ろ少く、かくの如きは餘程不運な人と云ふべきである。故に避難する前火氣を消し、若し發火した家あれば共力消火すべきは前記の如し。

 避難する場合には重荷を携帶せぬことである折角携帶したものも、火の粉の爲に之を燒くのみならず、之が爲に自分も亦燒死するに至つた事例が今囘の地震にも多くあつた。

 又猛火を被むりながら避難する場合には、蒲團又は衣類を水に浸して身を被ふことが必要である。被服廠跡に於ける慘死を免れたるものは多くは溜り水と泥を顔その他一面に塗つたと云ふ。

 今囘の地震に際し從來知られた發火原因以外の化藥品によりて發火した場合が可なりに多くあつた。その著明なものとしては帝大の應用化學教室、醫化學教室、早稲田大學、士官學校、學習院、三輪化學研究所等がある。この他大事に至らしめずして消し止めたものもある。又市内の藥店に於ても藥品より發火したことの明なるものが少なからずある。藥品の中には燐、ナトリウームの如き、空氣に接觸して直に發火するものは容器の顚倒破壊によりて發火したものもあり、又容器が破壊した爲に藥品が混合して發火したものもある。故に今後これらの藥品の貯藏に付ては嚴重な取締を必要とする。

 防火施設 次に火災防止の一手段としては堅固な家屋、即ち耐震火屋であるとが最も必要である。今囘の震災で類燒した家屋を見るに、木造家屋は勿論地震の爲に生じた壁の破れ目、間隙、屋根瓦の落ちた後に露出した可燃燒物より延燒し、或は天井又は窓の硝子が火熱に溶けた所より火を引いた例も頗る多い。されば今後の理想的家屋としては耐震構造として賞揚せらるゝ鐵筋コンクリート樣のものに、更に耐火性を加へることになるのではあるまいか。

 この他公的方面の施設としては家屋の高さを制限し、兼ねて延燒の原因を減少すること、防火區劃を設けて延燒の原因を除くこと、避難所として公園を增設すること、消防施設を完備すること等がある。自分は明治三十八年に大地震の際、消防機關として水道の頼み難きを叫んだものであるが、今囘の大地震にも、震後約三十分にして消火栓全く枯渇し、主たる消火用水が缺乏したる爲に徒に猛火の延燒するに任すの外なかつたのである。尤も火災の場所によりては河川、濠水、池水の利用し得べきものもあるが、多數ポンプの繼送を要したので防火上の不便不利が少くなかつた。されば今後は遠近の淸濁流を引いて之を公園又は大道路に配置し、或は潮水を堰き止めて之を溝渠に貯ヘ、或は消火專用の高壓貯水池を設けることも必要であり、又現在消防に使用し難き流止水に對しては、例ヘば消火車の之に接近し得る道路を設けるやうな方法により至急にその利用の途を開くことが必要のある。

 要するに我國は全國至る所として地震の襲來を免れ得る絶對の安全地はないのである。又地震の襲來に對しては今日の科學は之を制止するを得ぬのであるから、私等は一面に科學的の研究により大地震の起る時と場所とを豫知することに努力し、他面には公私の施設と努力とにより地震及び之に伴ふて起る火災の慘禍を輕減するに努むるの外ないのである。然るに今囘の震災中、人命の喪失も家屋財産の損失も百分の九十五までは火災によつて起つたのである。從つて地震に伴ふ火災防止さへ完全に行はるれば震災輕減の目的は殆ど達すと云ふべきである。是に於て私は上記の方法により、世人が平時にありて防火及び消火に必要な設備を安全ならしめ、大地震に際しては徒らに狼狽せず發火の大源因を除いて避難するの訓練を積むを必要とする。

(講話會を開く機會なき爲に今村博士の地震に就て實業之日本社の爲にものせられたるものを特に請ふて掲載することゝしました。)