明治神宮の建築について
伊東忠太
(専任技術委員)
No.397号(大正10年3月号)

一.神宮造営の経過

 日本曠古の明君にまします明治大帝並昭憲皇太后の英霊を奉祀する明治神宮社殿の建築について余の所存を述ぶることは余の無上の光栄とする所である。神宮創建の始末、社殿の規模等については既に数種の出版物に記載せられ、世人もほぼその要領を知悉していることであるが、建築学の立場から見た神宮計画の方針についての説明は未だ何人によりても試みられていらぬ様である。余はここに特にこの点について記述を試むるのであるが、話の順序として、とにかく、神宮奉建の始末を一応叙述せねばならぬと思う。

 大正2年12月20日、政府は明治天皇を奉祀すべき神社の創建について調査すべく神社奉祀調査会なるものを設けた。伏見宮貞愛親王殿下を総裁とし、内務大臣を委員長とし、委員には奥、井上の両元帥、貴衆両議院長、渋沢阪谷両男、その他朝野の頭目、学術界の耆宿等を挙げ、調査を進めていった。その調査条項は第一祭神を明治天皇とすること、社の名号を明治神宮と称すること、社格を官幣大社とすること、敷地を東京とすること、社殿は流れ造、素木、檜皮葺とすること、その建物の配置は当局において適当に考案すること、その他これに付随して種々の要件が議定された。

 その間に昭憲皇太后が崩御になったので、明治天皇とともに同殿に奉祀されることに追決されたのである。

 大正4年4月30日に至って内務省内に明治神宮造営局が設置され、総裁に伏見宮貞愛親王殿下、副総裁に内務大臣、局長に神社局長が充てられ、総務、工営、林苑、総理の4課が分置され、外に参与参事が置かれた。別に評議員会が組織され、朝野の各方面の吏員及び学者が網羅された、随分船頭が多かったので爾来しばしば船が山に登らんと欲したこともあったのである。

 工事はしかしながら大抵において順調に進んだ。たとえ物價の暴騰等の為に一時少からず困難を感じたけれども結局ともかくも解決された。かくて大正4年10月7日は地鎮祭を行い、5年3月25日には釿始祭。8年5月28日には立柱祭、同年7月12日には上棟祭、9年10月28日には神殿祭を行い、工事全く竣功して11月1日に鎮座祭が挙行され11月3日に第一回の大祭が盛大に施行されたのであった。

 自分はこの工事に関して当初は神社奉仕調査会の当局として根本方針決定の議に当り、次いで造営局の参与として工事全般の議に与ったほかに工営課長として主として社殿建築の設計監督を担当したのである。即ち社殿建築に関する一切の技術上の責任は勿論善悪共に自分がこれに当るのである。前述の如く船頭が多かったために、自分の考案が改竄され否認された場合も多少存在するのであるが、今日においてはその責は全部自分が負うのである。

 以下順を追って、1)敷地、2)一般配置、3)建築様式、4)材料構造の諸項に分ち、自分の計画方針を腹蔵なく陳述してみようと思う。

二.敷地

 敷地については当初民間において幾多の候補地が提唱されたが往々甚だ突飛なものがあった。富士山の頂、箱根山の上、筑波山嶺などはその著しいものであった。その中自分の最も面白いと思ったのは府下飯能である、俗塵を去ること適当なる距離にあり、後に山岳の背景を有し、神社として必須かくべからざる水流にも樹林にも富んでいる。ただ欠点とすべきは東京市民にとっては参拝に不便なことである。もしも神社が東京市民の参拝のために建立せらるるものならば飯能は不適当である。もしも神社が公衆の参拝ということを問題とせず、ただ神社の風致体裁を主とするならば飯能は絶好の敷地であるといえるのである。その他に下総の国府台説もあったがこれは飯能よりも劣位にあると思う。一言にして言えば中途半端である。元来、明治神宮の敷地はこれを広く日本全土に求めて、最好適地を得るがよいという極端論もあったが、これは理想として結構であるが到底実行的でない。結局東京市の内外にこれを求めることになったのは実際やむを得ざる事情であった。

 東京市内の候補地の第一は戸山学校であった。広さはまず充分であるが土地の状態が面白くない。一部に老樹があるが概して樹林に乏しく、土地が渓谷によって両断されて社殿を配置するに適していない。次に白金の火薬庫の敷地がある。ここは老樹巨木鬱蒼として茂っているが、惜しむらくは敷地が狭く、かつ広い参道を取るのに不便な地勢にある。第三の候補として今の代々木の御料地が踏測された。ここは土地は高燥であり地盤も堅牢であり、元来加藤清正の邸であったと伝えられ、その後井伊家の下屋敷になったので美しい御苑があり、二三の古蹟などもあり、昭憲皇太后は行啓あり、明治天皇も行幸になったことがある。土地の広さも申し分がないが、高低の変化の趣は充分とは言えぬ。相当の松林や杉並木、その他多少の巨木があるが概して樹木が若い。将来渋谷、千駄ヶ谷、淀橋等が東京市内に編入され人家が密集してくれば、第一煤煙が神苑を襲う、火災の危険が伴う、汽車電車等の喧騒なる響が森閑なる静寂を破る。社殿の背景たるべき山岳または大樹林がない。幾多の欠点が現われ来るので勿論、理想的の好敷地ではないが、前二者に比べれば勝ること萬々である。況やこの他には東京市の内外にこれに優るべき候補地が見当たらぬのである。たとえ、あるとしても到底買収することも保管を転換することも出来ない性質であった。さらにたとえ、それが買収し得る性質の土地であっても、価格は驚くべき巨額に上るべきもので到底実行的ではない。結局今の代々木御料地を永久無償で使用することを得るの指令を得てここに敷地は確定し、更に代々木練兵場の一部を譲り受けてこれに加え、総面積約22万7千坪の土地となったのである。

 要するに今の敷地は決して理想的絶好というべきものでない。ただ東京市内外にこれに優る適当なる土地を得ることができなかったために選定されたに過ぎぬ。しかも今日は、あらゆる人事を尽して土地に高低を作り樹林を殖成し、径路を開き泉池を鑿ち、荘厳なる社殿がその間に聳え立つので、多くの人士、ことに幽邃神秘なる他の神社の例を知らない人士は、今日の敷地を以ってほぼ理想的の絶好なる神秘境と認めているのであろう。もちろん今後50年を経過したならば樹林が生長繁茂して見違えるほど立派になるであろうが、そのかわり都市もまた見違えるほど発達して、神社敷地は大廈高閣を以って囲繞せらるるに至らぬとも限らぬのである。

三.一般配置

今日の社殿及び参道の配置が確定せらるるに至るまではずいぶん複雑なる経緯があった之を詳細に叙述することはきわめて困難であるから他日別に稿を改めて報告することとし、ここにはただ簡単に要領を述べる。

 第一社殿の位置は南面してほぼ敷地の中央に当る茶畑と松林の間に選定された。社殿の南面ということは最も望ましい条件である。現今の官国幣社の中には南面でない例が少なくないが、夫は地形上やむをえないからである。たとえば京都の官幣大社稲荷神社は東山を負いて西面し、同松尾神社は西山を負いて東面し、安芸の厳島神社は西北に向かい、摂津の水無瀬宮はほとんど正北に向かっている。しかし事情の許す限り南面なるべきは当然であるから明治神宮はもちろん南面すべきである。

 さてこれに関連して起こる難問題は参道である。余は当初東北から表参道を通ずるの考案であった。即ち今の裏参道、代々木駅に近い、千駄ヶ谷街道から通ずるものを主導とし、敷地内に入りてS字形の曲線を描いて社殿の東に出で、社殿の第一神門は東に向いて開くこととし、神門を入って折れて北に向いて拝殿に達するの計画を立てた。しかし、第一神門が東面するのは適当でない。やはり南面するのが本当であるという説が認められたので、更にS字形を延長して螺旋形に迂回し南より参進するの工夫を試みたが、地勢上これは甚だ無理であるので、その後評議の結果、表参道は南から通じ、北よりするものを裏参道とすることに改定したのである。余は参道は曲線の方が適当であると主張したが、直線の方が森厳であるとの主張が認められ、終に今日の形に決定されたのである。

 社殿の配置についてはかなり研究が重ねられた。当局において全国の主要なる官国幣社の配置図を徴し、比較研究して長を取り短を捨て、幾度か考案を訂正改変して今日の提案を得たのであるが、その根本条件として第一に如何なる種類の殿舎を具備するか、第二に如何なる程度の大きさにするか、第三に如何にせば祭儀及び公衆の参拝に最も便利であるか、というような問題が研究されたがこれは同時にその材料構造が檜の素木造であり、様式は流れ造にすることを考えの中に入れておいての話しである。材料構造、様式のことは後章に説明する。

 殿舎の種類の最も多い神社は讃岐の金比羅宮、日光の東照宮、京都の両加茂神社、奈良の春日神社、安芸の厳島神社などであろう。しかしそれ等の中には歴史的の遺物としては存在しているのもあって今日では最早実際必要でないのがある。今次明治神宮におけるものは何れも必要欠くべからざるものを具足するのであるから殿舎の種目は比較的多くない。すなわち本殿、祝詞舎、中門、神庫、透塀、拝殿、回廊、神饌所、便殿、直会殿、玉垣、神門、秡舎、手水舎、祭器庫、鳥居、宿衛舎及神符授與所、社務所及敕使館等を以って組織しているので、別に遠く離れて実物殿の一郭がある。他の神社に往々存在する舞殿、幣殿、神興舎、神厩舎、絵馬殿等はこれを欠くのである。

 社殿の大きさを如何なる程度にすべきかはまた重大なる問題である。これを実例に徴するに、出雲大社の本殿は約四十尺四方であるから43坪余に渡り古来最大の社殿と称せられているが、実は京都八阪神社の本殿の約128坪を最大とし、備中の吉備津神社本殿の約81坪を第二とする、その他山城男山八幡宮本殿の67坪東京靖国神社本殿の65坪安芸厳島神社本殿の62坪余がこれに次ぐものである。拝殿の大きいのでは靖国神社の109坪、厳島神社の108坪、出雲大社の104坪余、橿原神宮の80坪等がある。伊勢皇大神宮の正殿の如きは僅かに18坪余に過ぎない。要するに神社の建物が大きいということは必ずしもその尊さを増す所以でない。明治神宮は必ずしも第一流の大建築たることを要しないが、しかしその大きさを定めるには何か準據とするところがなければならぬ。

 余の考案の根本は正殿内に奉安すべき二座の御帳台である。これに伴って左右前後に諸種の設備が施される。こうして窮屈ならざる程度の内陣の大きさが規定される。内陣の左右前後に幅三尺一寸の通路を設け、前に適当の広さの外陣を置いた。しばらくして本殿の大きさは実際必要なる最小限度に決定されたのでその面積は約30坪となったのである。拝殿は本殿と釣り合いから割り出し、かつ祭典の際に差し支えなき程度のものとしたのでその大きさは約60坪である。その他の殿舎はこれから割り出して互いに大小高低の調和を保つようにしたのである。要するに明治神宮の社殿の大きさは実際の必要から割り出したので漫然見計ひで決定したのではない。しかも出来上がってみれば頗る宏壮偉大となるものとなった。恐らくは我国神社中最も宏壮なるものの一つであろう。これは門廊殿舎が互いに連絡して一群一塊の観を呈するからである。

 ただその第一及び第二の鳥居は木造の鳥居としては実に日本第一である。第二の大鳥居は柱径四尺、柱間三十尺、高さ三十九尺六寸である。社殿に比して大いに過ぐるの感があるが、これは遠く社殿と離れて単独に立つのであるから少しも差し支えはないのである。因みに日本第一の木造の鳥居は実は厳島神社の海中の大鳥居であるが、あれは常規にかからぬ除外例である。

 以上陳述した本殿以下の建築物を現状の如く配置するに至ったのは如何なる標準に據ったかこれまた頗る重大なる問題である。現状は既に周知の如く外輪に玉垣を繞らして四方に鳥居を設け、その中に廊を繞らし南正面に桜門即所謂南神門を設け、廊内中央に拝殿を置き、拝殿の左右より復廊が出て回廊に連なり、自ら内外両院を区画する。外院回廊の東西に各神門があり、西神門の北にすぐ会殿がある。内院回廊の東には便殿及び神饌所があり、北に北神門がある。内院の内には更に透塀を以って一区を限りその南に中門を開き、中門に連続して内に祝詞舎を設け、祝詞舎の先に本殿が立ち、その西北に神庫がある。透塀の東西に腋門、北に北門がある。その他玉垣内に祭器庫と宿衛舎及び神符授興所があり、正面玉垣外に祓舎と手水舎があり、両面玉垣鳥居外にも手水舎がある。この外南北西の参道口に各鳥居が建てられ、南北参道の合するところに大鳥居がある。

 かくの如き配置は現存の神社に未だ類例を見ないのである。桜門回廊の制は男山八幡宮、鶴岡八幡宮等にあるが、彼と是とは全く趣を異にする。拝殿復廊の制は寧ろ大内裏宮室の俤を偲ばしむる。中門から本殿に至る配置は最も普通なる制度によるもので何等の奇もない。要するにこの配置において生ずるところは主として祭典及び参拝の利便に重きを置いたものである。一般公衆は拝殿の階下まで参進することを得ることとなっているので、外院の中には可成多数の公衆を収容することを得るように、また軍隊等が列を作って参拝し得るだけの広さを取ったのである。外院回廊はこれらの群衆が雨及び盛夏の炎暑を避けるためのよう供するつもりである。拝殿に連なる東の復廊は陛下行幸の際便殿より拝殿に出御の際その北側を通御のためであり、左右均斎のために西にも同形の復廊を設けたのである。神饌供進の便利のために神饌所を内院廊に接続せしめ、仮廊を以ってこれを祝詞舎に連続したのである。その他の微細なる箇条はここには省略するが、要するに宮内官や神職や考証家と建築家とが慎重に協議して決定したのであって、ただ漠然と勝手に取極めたものではないのである。

四.建築様式

 建築様式は神宮建築の死活問題である。神宮営造の議が朝野の話題に上るや、早くもその様式問題は専門家のみならず一般有志者の間に講究せられ、種々なる意見が発表された。神社奉祀調査会においても、評議員会においても懇ろに熟議されたがついに余の提案が納れられて流れ造の様式とすることに決定されたのである。

 様式に関する意見の主なものは4種あった。一は大社造を推すもの、二は神明造を可とするもの、三は何等か斬新なる大正式を創作すべしと唱うるもの 、四は余の流れ造を適当とするものである。今順次にこの諸説を紹介しあわせてこれが論評を試みようと思う。

 大社造を推す者の主張は頗る傾聴に値する。いわく、明治天皇崩御ましましてその英霊は天に帰り、神代の神々と同列に伍し給う。然らばこれを奉祀するところの神殿は神代ながらの宮造りでなければならぬ。出雲大社の等式は日本最古の神代の宮造りである。宜しく偉大にして簡素なる大社造りの社殿を奉建し、国民をしてこれを仰いで我が国運の悠久を懐はしめ、我が国体の尊厳を知らしむべしと。なるほど立派な意見であるがもともと出雲大社は大国主命の住ひ給ひし住宅であって、その様式は寧ろ出雲地方に行われたる地方的のものと考ふべき理がある。ある学者は出雲民族と天孫民族とは自ら別種であるとさえ唱えるのである。余は今だにこの説を信ずることができないが、とにもかくにも疑問として研究すべき余地があると見ねばなるまい。然らば今この大社造を以って明治神宮社殿の様式に擬することは頗る躊躇すべきではあるまいか。

 神明造を主張する者は曰く、大社造はあまりに時代が古く、その体裁も未だ崇美とはいえぬ。神明造は人皇の代に入って大成したもので、最も尊厳なる伊勢の両宮の社殿の様式であれば明治神宮の社殿もまたこれによるのが適当であると。なるほどこれもまた確かに一理ある。左りながら純正なる神明造は伊勢の両宮にのみ限って適用されるべきもので、熱田神宮さえもこれと同式とすることを避けている。明治神宮もまた勿論純正なる神明造とすることはできぬのである。然らば一種の破格なる神明造とするよりほかに道はない。明治神宮の社殿に破格なる様式を適用するということはいかがあるべきか、熱田神宮はその由緒から見ても皇太神宮と極めて類似する様式であるであるべきは当然であるが、明治神宮の場合はこれとやや異なると思われざるか。かつ神明造もまた大社造のごとく太古の宮室であるが故に、その境域もまた伊勢両宮の如く神代ながらの老杉矗々として幽邃森厳なること太古の如くにして初めて意義がある。然るに代々木の敷地は惜むらくは樹林に乏しく、清麗の観はあるが幽邃の趣がない。今後幾百年を経るとも決して鬱蒼たる森林にはなり得ないことは林学の専門家が断言している。これ決して神明造の社殿を起こすに適しているのではない。なほまた神明造の様式は余りに型に制限があって建築としては意匠を施す余地がない感もないではない。要するに神明造説は絶対に不可とはいわぬが適切とは認めがたいのである。

 明治大正の新様式論は極めて斬新なる理屈である。その主張の要領をあげれば、おおよそ神社建築の様式なるものは古来時と共に変遷してきている。太古に大社造神明造あり、平安朝に至って流れ造、春日造等あり、次いで入母屋造を生じ、ようやく次に変遷して幾多破格の様式を生じ、桃山時代以降は専ら権現造の適用を見るに至った、然らば今や大正の御代において、新たに大正の新式を出すのは当然であろう。何を苦しんで太古の様式を踏襲せんとするか。宜しく石、煉瓦、若しくは鉄筋コンクリート等の永久的不燃質の材料を以ってこれに相当する様式を造りだすべきである。古の神社は本殿拝殿等何れも貧弱なる小建築が点々分離して建てられているが、斯くては徒らに大いなる敷地を要して、建築は却て堂々たる威貌を呈し難く、祭典参拝にも不便を伴う。寧ろ一塊の大建築を造り、その内を区画して教室を分かち、例えば中央の広間を拝殿に充て、奥の一室を本殿とし、広間の左右を神饌所、奏楽所とし、その他社務所等に至るまでも総て一塊一字の内に取り込めば、祭典参拝の便はいうも更なり、建築は堂々たる巨宇となるべく、工費も修繕費も著しく省約される。要するに一切が万事現代式に執り行うことが即ち現代の天皇を奉祀するに相応しい道理であるというのである。

 論者のいうところは一見頗る痛切なる卓見であるが如くであるが、これ実は神社建築の意義を誤解しているのである。余はここに少しくその妄を弁じ度いと思う。

 建築の様式なるものが時と共に変遷しゆくは一般論としては正しき事実である。何故に斯く変遷するかを考えて見るに、それは世の中の事情が時と共に移り変わるに従い、世人の建築に対する観念、要求が変わるに由り、己を得ずしてその様式を変ずるのである。これは普通の住宅や事務所の如きはこれであって、世の中の事情の移動とともに生活の有様や執務の方法が変化する。住宅や事務所ということについての思想観念が変化する。即ち何時となく自然に住宅や事務所の様式が改善され変更される。もしも世態が千年変わらなければ建築も千年変わり様がない。アフリカ内地の蛮族開国以来少しも文化に進歩を見ないからその醜矮なる住居もまた開国以来少しも変化しないのである。要するに建築の様式はある物好きな一個人によって任意に捏造さるべきものでなくして、己を得ざる社会の要求のために、自然に変化すべきものである。

 今や吾人の神社に対する観念は古来何程変化してきたか、祭祀の方式は古来何程変化したか、現代の世人は神社の様式を一変せしむる程神社に対する新要求を有ているか、余輩の見るところはそうでない。我が国民の神に対する観念は古今かわらぬといってよい。祭祀の式典も古今大いなる相違はないと思う。然らば如何にして神社建築の様式が変わりえようぞ。ただ参拝の仕方は多少違ってきている。例えば洋服に靴という姿で立礼を行う者が多くなったことなどは其一である。この要求を充たすためには拝殿を石敷にし、囘廊も石敷とし、祭典に参列する者のために椅子を備ふるの用意もするのである。しかし社殿そのものは神霊の家である。民衆の家ならば要求の新なるに従って変化もするが、神霊に新しき要求はない。従いて様式は変化しえない。伊勢両宮の社殿が太古以来少しもその様式を変ぜざるは是に以ありと謂うべしである。

 然るに論者またいわく、神を祭る神在すが如しとは祭祀の根本義である。故に上代の神は上代の生活状態そのままの形において祀られ、中古の神は中古の生活の形において祀らるるを本義とする。即ち現代の神は現代の有様において祀らねばならぬ。例えば中古の天皇の神霊は御帳台に奉安され中古の調度品が設備さるる。明治大正の天皇の神霊は明治大正の建築内に奉安され、明治大正の調度が設備さるべき道理であると。なるほどこれも一理屈である。然らば仮に明治天皇はルイ第16世の御椅子を常用し給いしとすれば、神霊はまたルイ第16世の御椅子に奉安せざるべからざるか。仮に明治天皇は某々の飲食を好ませ給ひしとすれば神饌に某々の飲食を供へ奉らざるべからざるか。明治天皇の神霊既に天に帰りて神代以来の神々と同列に伍し給うに如何ぞ斯かることを嘉納し給うべきや。

 明治神宮社殿の様式に関して、かくの如く最古式と最新式の両極端説が提出せられたことは頗る興味ある現象である。以って我国民が口を開けば神社崇拝を説けども、元来神社の意義については統一せられたる思想がないことを証明するに足るものである。もし神社建築を住宅事務所の建築を以って律せんとするに至っては事理を解せざるも又甚だしというべきである。

 余の流れ造り説を主張せる根底は大要左の数項にある。

一、神社様式は多く大社造とか、春日造とか、神社の名において称せらる、その様式はその神社に特殊であり、単独的乃至地方的のもので普遍的でない。然るに流れ造は形状において命名されたる普遍的のもので如何なる神社にも適用さるるのである。

二、大社造や神明造は余りに古代に属し、その性質は南洋的である。流れ造りは平安朝に入って成立したもので進歩せる大陸的の建築であり、かつ純日本趣味を発揮したものである。流れ造の形式は神社として国民の間に最も親密の感を以って迎えられているのは偶然でない。現に全国十二万以上の神社の大多数、否殆ど全部に近い数は流れ造である。神社といえば直に流れ造を思はしむる位なものである。即ち流れ造は神社様式の標基といっても差し支えはない。

三、これを建築的に考えてみても、流れ造の優麗典雅なる形は、大社造等の簡素硬直なるに比して遙かに美しいといえる。大社造等はあまりに型が極り過ぎて意匠を施す余地に乏しいが、流れ造は厳重な型がないから自由自在に意匠を施す余地がある。

四、代々木の敷地は土地の状態、樹林の工合等から見て、大社造に適するよりは寧ろ流れ造に適する。

五、明治神宮に適する様式の選定は到底議論だけでは解決しがたい。何となれば既往における様式は各一長一短があり、明治神宮に適当であるという積極的道理は一つもなく、また現代において適当なる新様式は作り出すことができない。然らば寧ろ欠点を少なくして実行に便であり、かつ一般国民に最も親しみの深い流れ造を採用するのが最も適当であるという消極的方便をとるよりほかに仕方がないと思う。

 この流れ造に対しては、余り反対の意見はなかったのである。ただ明治天皇と平安時代の様式とは何らの関係がないではないかという疑義や平安時代は文物隠淫靡に流れた忌むべき時代であるのに、その時代の様式を取るは快からずという意見があったが、如何なる様式においてもより以上の欠点が数えられるので結局流れ造に決定され、殿舎門廊皆これから出発してその形を考案したのであった。

 大体の調子は平安時代の最優美なる形式を取る方針で、建物の高さ、柱の大きさ、軒の反り、屋根の勾配、破風の曲線等は皆これに準じ、故技師安藤時蔵君が自らその形を描き出し、各宇の調和を巧みに整えられた。細部の手法、錺金具、絵様等は強ち平安趣味に準ぜず適宜に考案工夫するの方針を以って技師大江新太郎君が自ら図案を作成せられたのである。

五.材料構造

 建築材料の主要なるものはもちろん檜材である。回廊以内の諸建築は全部木曽産の檜であるが、回廊以外の建物には台湾阿里山の偏柏を用いたのである。石材は主として備中北木の花崗石を用いた。その他の諸種の材料についてはここに記述を省約する。ただ特筆しておきたいことは屋根が玉垣を除く外全部檜皮茸であることである。

 この問題については当初大いに議論があった。論者は耐久耐火の目的を以って屋根は銅葺にするのが適当であると主張し、多数の同意者があった。これは一応至極最もな説である。しかしながら今次神宮造営の方針は出来得る限り正格なる社殿を造るにあった。平安時代の趣味を発揮せんとする正格なる神社の屋根はいかにしても銅葺では調和せぬ。もし銅葺にすれば折角の社殿建築の調子が全然破壊され、所謂九仞の功を一簣に欠くことになる。火災の防備は別に相当の施設を竭してもぜひ檜皮葺にしたいというのが余輩の主張であった。耐久問題については、なるほど檜皮は不利益である。しかし完全に葺き上げた檜皮の寿命はよく50年にするものであり、銅版で葺いてもその下地は案外早く腐朽する例は余輩の均しく経験するところである。要するに社殿建築の正格正式ならんがためには多少の物理上不利益はこれは忍ぶという覚悟でなければならぬ。もしも耐久的ならんがためには破格なるを厭わずというならば寧ろ始めより木造を棄て石造煉瓦または鐵造とするにいかぬのである。既に木造を是認する上は檜皮造をも是認して差し支いはない。あるいは火災に対しては屋根が最も警戒を要するので軸部は左まで憂ふるに足らずといわんか、これ五十歩百歩の不徹底の論である。なるほど飛び火の場合には屋根が危険であるが、自火の場合には足元の方が危険であろう。結局神宮の屋根が檜皮葺に決定されたのは余輩の均しく雀躍禁ずる能はざるところであった。

 構造に関しては特筆するほどの重大事件はない。基礎工事については特に参事工学博士佐野利器君の考慮を煩わした。本部の構架は定法に由て出来得るだけ注意を加え、小屋組の如きは純和小屋の方式に随所鐵材を以って補強したのである。

 木材を防腐剤を以って処理することは問題となった。鳥居材の地中に埋められる部分はこれを実行したが、その他は一切見合わせたのである。実際ああ美しい檜材の肌に薬液を注射することは到底忍びないのである。注射を施さずとも、本殿の柱廻の如きは少なくとも数百年は安全である。注射のために更に幾年の寿命を延ばし得るかは蓋し疑問である。要するに最良の檜材を鐵道の枕木や、電信柱などと同一に取り扱うことは誠において忍びないことである。

 施工の程度はまた鄭重を極めたものである。本殿においては一坪当たり250工を要した。余輩は伊勢両宮の御造営以外においてかくのごとく鄭重なる工事を経験したことがない。その材料の美しいことは蓋し他に比儔を見ないであろう。この点については特に技手木村米次郎君等が帝室林野管理局より供給せられたる小節材若くは並材の檜を以って巧に其の節を避け、彼の広大なる建築において外部に一の小節をも露はさしめざりし苦心と技量とに対して感謝を禁じ得ないのである。

六.結尾

 神宮建築に関して言うべきことは際限がない。しかし、大江技師が細部に亘って精細なる記述を試らるるはずであるから、余はこれ以上のことは述べないつもりである。切に望む世の建築家諸君が神宮建築について忌憚なき所感を披瀝せられ余輩の蒙を啓き、誤を正し、以て建築学術上に切実なる訓戒を与えられんことを。

 終に望み願わくば、余にこの名誉ある工事に関与せられたる主なる建築家諸君を江湖に紹介するの光栄を与えられんことを。明治神宮造営局の参与として塚本工学博士はしばしば重要会議に臨み侃諤の論を吐かれた。評議員関野工学博士は造営の根本方針を確立するにあたって努力せられた。参事佐野工学博士は一般の考案設計及び現場の監督等あらゆる方向にその心血を注がれた。故技師安藤時蔵君は社殿建築の実施計画を確立せられ、工事緒に就いて幾もなく長逝せられたのは痛歎の至りである。技師大江新太郎君は安藤技師の後を継ぎ主として施工の重任に当られ、安藤技師の未だ悉さざりし所を完了して遺漏なからしめた。技手木村米次郎君等は或は現場を司り或は材料の処理に任じ、或は設計製図に従事し数年一日の如く日夜尽瘁倦むことを知らなかった。参事桐山平太郎君はじめ設計に関与せられたが中途に引退せられたは惜しむべきことであった。余はここに以上諸氏に対して満腔の感謝を表し、なお多数の諸職工が常に敬虔の熱誠をもってこの工事に奉仕したるの態度を激賞したいのである。

 附言敷地の北辺に建築中の賓物殿は大江技師の考案に成るものであるが、目下技師志知勇次君主任として経営しつつある。来秋竣成を待ってこれが記述は当時諸氏より公表されるであろう。今余はこれに言及しないこととする。社務所および勅使館は特色ある建築であるが、これは大江技師から解説せらることと思うから、これにも言及しない。余はただ社殿建築の大体方針を述ぶるに止まるものである。

(大正9年11月12日茶話会より)