人工的乳癌發生の研究に就て  
山極勝三郎(醫學博士 ) No.373(大正8年3月)号

 恐るべき癌種發生の原因には特別の病原體が無くとも又先天的に癌種となるべき組織或は細胞が無くとも周圍の境遇殊に慢性に反覆持續して來る刺戟があれば發生するものであると信ずる所から私等は大正二年以來人工的に癌種を發生せしめて其病理一切を研究し延いてはその根本的治療法を見出さんとして研究を重ね兎を試驗動物に採つて先づ其耳に度々コールターを塗つて見た處が大正五年に至つて其所に立派な表皮癌を發生せしめることが出來た處が此表皮癌は胃癌、食道癌、乳癌、肝臓癌、膓癌、子宮癌等の如く腺癌と稱せられるものに比べると性質が割合に良く治り易いといふ處から或る人々は腺癌は到底表皮癌の如くに人工的發生は出來まいと言つたが私等の考へでは腺癌も表皮癌も結局病原は一つであると信じた結果大正六年六月以來兎を採つて乳癌發生に努力し始めた此兎に人工的乳癌の發生といふことはまだ世界中で一つも報告が無い事で私等が最初の試みである私等が採つた手段は兎の乳腺にコールターの水浸エキスとラノリン(羊脂)を混ぜたもの又純粹のコールターとラノリンの混合液若くばコールターのみと種々工夫して注射を試み其場所に刺戟を與へたのであるすると四十八頭の兎の中で二頭が確に排乳管の上皮から出來た乳癌を發生し夫が癌種に到るまでの總ての移行の狀態を表明するに及んだのである是に依つて私等は人工的腺癌發生の曙光を認めたのを欣ぶものであつて今後愈研究の步を進めて病原を究め治療法まで成就したいと思つて居る但此間嘗て外國の學者が發表したやうに婦人の乳癌は姙娠した事のある者の方が處女よりも多く罹り易いものであることを確め得た私等が用ゐた兎の中で四度も姙娠したことのある兎が最も複雜な面白い乳癌を發生してゐるやうに人間も姙娠の度數が多ければ多い丈乳癌に罹り易いものと思つて宜からう外國學者の發表には乳癌に罹つた婦人の八十パーセントは母たるものであつたとある從つて既に母たる婦人は充分注意しなければならぬのである。
(五日夜東大病理學會例會にて)