日本のウィスキーの創始者 竹鶴政孝の想い出
竹鶴 威
(ニツカウヰスキー副社長)
755(昭和57年7月)号

 竹鶴政孝(父)は、日本における本格ウィスキー (スコッチタイプ)の創始者であり、昭和五十四年八月、八十五歳で物故するまで、その生涯は文字通りウィスキーに賭けた一生であった。

 明治二十七年、広島県竹原町(現、竹原市) のつくり酒屋の三男として生れた。兄二人が家業の酒造りを敬遠した為、三男が大阪高等工業(現、大阪大学)醸造科に進んだ。卒業後勉強の為、摂津酒造に入社したが、摂津酒造は当時洋酒のメーカーとしては第一人者であった。然しその製品は合成手法によるイミテーションであった。阿部喜兵衛社長は大変進取的な人であり、入社間もない政孝にスコットランドに渡って、本格ウィスキーの勉強をして来る様命じた。当時としては全く画期的なことであるが、驚いたのは実家の方で、折角の家業を継ぐ者がいなくなる訳である。親からの反対にあったが、阿部社長の説得と熱意で、家業はやむなく親戚の酒屋にゆずることにし、留学することになった。時に大正七年のことである。

  スコットランド以外の国で、スコッチタイプの本格ウィスキーの製造に成功している国は今日でも、日本以外にない。実はそのことのこれが創まりだったのである。

  スコットランドに渡って、グラスゴー大学に籍を置き、ウィスキー蒸溜所の実習などで勉強を始めた。門外不出の技術であるだけに、この時の大学の教授の好意がなければ、各地の蒸溜所に入り込んで実習は出来なかったであろう。当時は現在と違って周囲に日本人は全くいなかった。流石に気丈な政孝も望郷の念にかられたこともあったらしい。当時勉強したウィスキーに関する洋書のある頁に、エンピツのはしり書きで、『苦シイ、シカシヤラネバナラヌ』などと書いてある。

  色々な人の好意でスコッチの勉強が出来、大正十年、四年振りに帰国したが、当時は第一次大戦後に迎えた世界的不況期にあり、金のかかるウィスキー製造に対し、摂津酒造では投資を見合せた。種々の事情があって会社を退社、浪人している所へ、赤玉ポートワインで成功されていた、寿屋(現、サントリー)の初代社長、鳥井信治郎さんから、本格ウィスキーをやって見たいと言うことで技術の提供を求められた。 鳥井さんは三井物産を通じてスコットランドから技師を連れてくるつもりであったが、向うから逆に、日本に良い技師がいると言うことで話があった。もともと摂津酒造時代からの知り合いでもあり、ウィスキーを日本でつくることを夢にした男である、話が進みウィスキー工場建設、その為の資金の用意、十年間の契約で、大正十二年六月に寿屋に入社した。

  そして日本最初のウィスキー工場が、大阪と京都の中間、山崎に大正十三年十一月に出来上がり稼動を開始した。原酒の熟成を待って昭和四年、日本初の本格ウィスキー『白札サントリー』が世に出たのである。然し乍ら、鳥井さんがウィスキーに寄せられた期待と情熱、その要望に応えようと一生懸命に努力したにも拘らず、その売行は芳しいものではなかったそうである。まだ早過ぎた。宴席は日本酒ばかりで、ウィスキーに対する認識はまだ極めて薄かった。

  その後、寿屋の手がけた横浜の、オラガビールの工場長も兼務したりしたが、十年の約束も過ぎ、自分で理想の地を求めてウィスキーづくりをしたい夢があった為、寿屋を退社し、協力者を得て、自分がかねてからウィスキーづくりの理想の地と考えていた、北海道の余市町を選んだ。そして昭和九年七月に、大日本果汁株式会社(現、ニツカウヰスキー)を創立した。

  余市は小樽から約二十キロ南にあり、余市川が日本海に流れ出る河口にある。ニシンの漁場としても有名であったが、リンゴやブドウの産地でもあり、山海の食べ物に恵まれた土地であった。リンゴは余市を開拓した会津藩の旧武士たちが育てたものである。明治十二年に実を結び、わが国でリンゴの最初の結実を見た場所である。

  余市でとれるリンゴを使って、アップルジュースをつくった。御承知の様にウィスキーは製造しても、永年樽で寝かさなければならない。従ってその間は全く収入がないばかりか、投資ばかりである。従ってその食いつなぎの為リンゴ加工が必要であった。そのアップルジュースもフルーツジュースとしては、誠に早い売り出しであった為幾多の苦労が重なった様聞いている。

  そんな中にも、仕込んだウィスキーの熟成が進み、昭和十五年秋、角びんに入ったニツカウヰスキーの第一号が出た。ニツカと言う商品名は当時の社名、大日本果汁の略、日果(にっか)からとったものである。

  その後、戦争に突入、統制時代となり、余市工場は海軍の指定工場として、海軍将兵の意気を挙げることなどに貢献し、原料の大麦の配給は戦時も続き、原酒の貯蔵量は次第にふえていった。

  かくして終戦を迎え、戦後の荒廃した時代を経て、三級ウィスキー(現、二級)の時代となった。これは原酒が五パーセント以下でゼロでもよく、香料と色素をアルコールに入れた合成ウィスキーが氾濫した。政孝は自己の主張を絶対に曲げず、イミテーションウィスキーは造らないと宣言、自分のウィスキーに賭けた技術的良心をつらぬき、原酒を他のウィスキーメーカーに販売して、少しでも日本のウィスキーの向上に役立つと言う自分の理想を追求し、全国の約三十軒あったウィスキー免許をもつメーカーに譲って、会社の経理も一息ついたが、インフレの激しい時代である会社の財政も苦しい時期が続き、遂に見かねた国税庁から、現実主義的な説得を受け、三級ウィスキーの発売に踏み切ったが、この時も、自分は本格ウィスキーに命をかけた男である。自分がブレンダーとしての良心に反し三級ウィスキーをつくらざるを得ないが、税法で許される最高までの原酒を入れ、合成手法は一切用いないと宣言、その後生れた「新角びん」と言う製品は、他社より量が少なく、価格は高かった。良いものは高く売るのが当然だと言うことである。

  その後も税法改正の度毎に原油混和率のアップを言い続け、現在では最低でも十パーセント以上、十七パーセントまでが二級ウィスキーの規格になっている。

  日本で初めて本格ウィスキーを造ったと言う自負と、ウィスキーに生涯を賭けた信念は、時として商売とは相容れないこともあった。特約店の会合で、ニツカは品質の良いものを造っている、それが分って貰えない人は売ってくれなくても良い、と言う様なことを平気で公言した。又監督官庁のお役人にも歯に衣着せぬものの言い方を堂々としていた。性格は豪放磊落な方で、気骨があり、頑固一徹、そう言う面では所謂、明治の人間の典型的人物であったかも知れないが、若くして英国に留学し、向うの風俗になじんだ所為か、ユーモアのある話術、ジョークも交えてしゃべることが大変うまかった。従って可成り思い切った発言をしても、何となくユーモラスで相手が感じを悪くするよりも苦笑に終ることが多かった。

  一面、人に対しては細かい配慮をする面があり、人を接遇する時などの行き届いた配慮は随分勉強になった。決して派手ではないが心の籠ったもてなしをする様、万般細かい所まで指示した。戦後数年を経た頃、ウィスキーは金の寝る事業であり、金融的には大変だった様で、よく銀行の支店長などをもてなしていたが、例によって可成り勝手な放言もあった様である。二〜三年前、当時の方に偶々お会いする機会があったが、その頃を回想して『いやあ竹鶴さんには参った、金を貸すまで動かないと言われ、金を貸さない方が悪いんだと許りの調子だった』と懐かしんでおられた。

  やゝ順調に仕事が伸びる見込があった頃と思うが、ある時私は社長から呼出しを受けた。『おまえはも少し金を使うことを考えろ』と言われた、要するに工場設備の改造を考えろと言うことである。当時の私はまだ二十代の終り頃であったろうか。事業は金を使わなければ伸びないと言われた。喜んで設備の改造にかかったことは申すまでもない。その後も工場の設備投資に関しては極めて積極的であった。経理担当役員の方が渋い顔をされることも屢々であった。

 可成りのワンマンであったが、物事の決断が極めて早く、決めるとあとに引かないので、早過ぎて困ることもあり、決裁を受ける前にあとのことを充分考えてもち込む要領も部下は心得ていた。然し人を信頼すると思い切ってまかせてくれた。

  決断の早さではこんなこともある。北の余市をスコットランドの北部、ハイランドに喩えると、南部、ローランドに匹敵する気候風土の所にもう一つの原酒工場をつくり、その両原酒を混ぜ合せ、ウィスキー品質の向上を計ることは、政孝の理想であった。愈々ローランドに匹敵する仙台付近に第二原酒工場を建設する企画がまとまり、吾々は敷地を探しに出掛けた。あてどもなく歩き廻り、ウィスキー製造に適する環境を見付けるまで何回も訪れた。自然がウィスキーを醸すと言う信念があり、工業団地などには目もくれなかった。結局、二〜三の候補地を選び、社長の決裁を受ける為同行して貰った。最初に案内した場所は、広瀬川と新川(ニツカワ)の合流する地点で、川原には熊笹が生い茂っており、それをかき分け新川の川辺に出た。その川の水の手の切れる様な玲瓏さ、それを見て、おいウィスキーとコップをくれと言う、川の水で水割りをつくり、それを飲んで、ここに決めたと即決である。あとの候補地は如何と尋ねると、もうこれ以上の所はないから見る必要なしと言う。普通なら若しも、もう少し良い所があるかも知れないと言う欲がある筈であるがそれがない。吾々もそれは読んでいたが、只一つ不安は、その土地が誰の所有なのか、譲って貰える土地なのか何うか全く知らなかったのである。幸いにも、宮城町の協力もあって出来上がったのが現在の仙台工場である。敷地六万坪、水と緑と山に囲まれた、誠に環境の良い立地である。

  ニツカを創業し、育てるには幾多の苦難の道もあったことを、吾々も聞いている。然し乍ら、感心し、又驚くのは、その趣味(娯楽)の多彩だったことである。釣り、狩猟、碁、麻雀、若い頃は、柔道、剣道、テニス。後にゴルフ。歌謡曲も好きだったし、謡曲もうなった。食物にも自分の好む物に道楽した。

  釣りは、余市川の鮎釣り。海では次第に大ものをねらう様になり、漁師と打ち合せて、度々出掛けた。最大のものは、オウヨ(イシナギ)、目方は約三十キロ、長さ一メートル余のものである。

  狩猟は、猟友会の会長もやったりしていたらしいが、とうとう熊狩りに出掛ける様になった。いくら北海道といえども、そうそう山に熊がうようよしている訳ではない。幾度か出掛け、遂にアイヌ岳と言う山の近くで、一頭仕とめた。雪のある山を歩くのは大変な労力であるので、ヘリコプターに乗り、熊を探すと言うことも幾度か試みたが、機上から撃つことは狩猟法違反だそうで、見つけても地上に下りて探した時は既に姿は消え、之は失敗に終った様である。

  碁、麻雀は町の仲間と、それこそ閑があればやっていた。会社の就業時間中であろうといつであろうと、お構いなしである。この辺は現代の会社役員では考えられない、明治の大らかな人物像である。然も堂々と、あから様であったから、誰も何とも言う人はいなかった。却って、稚気満々のその勝負の仕方は、ほほ笑ましくもあった。

  相当のワンマン経営者であったが、戦後、労働組合運動が急激に活発になって来た頃、自ら、ウチにも労働組合をつくれ、と言い出した。当時の工場長は、腰を抜かさん許りに驚いたが、社長命令である。間もなく労働組合が誕生した。世間では御用組合的な見方もあったが、その誕生の経過に於ては、何の条件も指示も一切なく、全く自由な立場で結成した。これからの企業には、労働組合が必要であり、お互いに話し合って行かなければいけないと言っていた。そう言う非常に進歩的な面もあった。

  ウィスキーは毎日、夕食後半本から一本、床に入ってからも最後の仕上げをしてから休んだ。これは量こそ減ったが、殆ど亡くなる直前まで続いた。飲むと頭の冴える方で、独りで飲み乍らいろんなことを考えていた様である。

  飲むウィスキーは決して高級なものではなく、最後に愛用していたものは、二級ノースランド、市価八〇〇円の商品である。

  色々とエピソードの多い人物であったが、その一生は好きなことを好きな様にやるべく努力し、やって来た。生涯をかけたウィスキーも、今日これだけ多くの人々に飲まれ、親しまれている。

  自分は幸せな男だったと自ら述懐していた。

(ニッカウヰスキー・北大・工・昭24)