東大の思い出  
辰野 隆(東大名誉教授) 659(昭和30年4月)号

 
 僕は明治四十一年から大正二年までの八年間、東大の学生として──寧ろ居候として──浜尾・山川両総長時代をすごしたのである。當時、法学部──法科と称した──は四年制であったが、一度落第したので、五年間沈澱の手間をかけ、而もびりつこけで、辛うじて卒業したものの、如何に世間が今よりのんびりしていたとはいえ、尾席卒業者には、如何なる官庁でも会社でも採用する義侠心を持っていなかったから、やむを得ず、改めて文学部──文科と称した──へ入学して──学士入学は無試験であったから、フランス文学科を択んだのである。
  当時のフランス文学科一年級は僕一人であった。二年級には、豊島与志君と新城和一君がゐたが、三年級には学生がゐなかった。而も、豊島、新城両君は度々学校を休むので、僕は唯一人で担当教師のエミル・エック先生の講義を聴かねばならぬ日も幾度かあった。つまり、生徒一人で先生を雇っているようなもので、贅沢と云えば贅沢だし、フランス語の勉強には頗る好都合だったが、夏の午後の時間には、往々眠くなっても、一人では居睡りも出来ず、睡魔を払いのけるのが困難だった。
  そういう時には、僕はねむ気を覚ますために息を止めた。三十秒、四十秒となると段々苦しくなり、五十秒になると、眠ってはゐられぬ程緊張して目が覚めて来るが、その代り、顔がまっ赤になるらしい。するとエック先生が僕の顔を見て、《ケ・ス・ク・ヴ・ザ・ヴェ?》(どうしたのだ)と訊ねるのだが、まさか、居睡り退治をしている、とも答えられずに、《ス・ネ・リャン!》(何でもない)と答える他はなかった。暫くすると、また睡くなる。また息を止める。さういう芸当を数回繰返しているうちに、どうやら睡魔も退散するのであった。
  法科の五年間は、法律の勉強が身につかず、文学畑の書物ばかり耽読していたが、文科に入学してからは、此処で怠けては、自分というものが失われると覚悟して、相当に努力した。こんどは、三年間一度も落第せずに、どうやら無事に卒業したが、クラスは僕一人なのだから、首席で同時にびりでもあった。

 法科の五年間は、僕に取っては、生涯の空白であった。法律の如何なるジャンルにも興味を持てなかった。公法も私法も、総論も各論もなかった。そのくせ、当年の法科では、日本民法の起草者である梅謙次郎、富井政章などいう立派な学者が未だ健在していたが、どの講義も一向面白くなかった。
  後に、リオン大学に遊んで、その昔、梅・富井両秀才がこの大学に学んだ偉材であったことを知って、自分が法科の学問を疎かにしたことを思い出した次第である。

 今から昔を振りかえってみると、浜尾・山川両総長時代が帝国大学の全盛期でもあり、同時に日本帝国の全盛期でもあったように思われる。両総長とも忠君愛国の士で、学問を重んじ学者を愛した罕に見る人格者であった。浜尾は慈母の如く山川は厳父の如し、と謂われていたが、慈母の如き浜尾に鉄石の背骨が備わり、厳父の如き山川にあふるゝ涙が湛えられていた。

 三大節とか運動会とか柔剣道の大会の後で浜尾総長や山川総長の挨拶の辞を聴くのが我々のたしみだった。浜尾総長の挨拶は常に出たとこ勝負だった。予め何を言うべきかなどと考えたことは恐らく一度もなかったろう。或時、彼は最初の一句に「之を要するに」と言ったことがある。「之を要する」には、それ以前に言わなければならぬ相当の内容を前提とするのに、冒頭から「之を要され」ては、聴く者は何の事やら判る筈がない。それにも拘らず、彼の胴間声と無準備、八方破れの談話に耳を傾けて我々はたのしんだのである。彼は如何なる会合でも、最後に必ず直立して天皇陛下万歳! 東京帝国大学万歳! を唱えるのが吉例であった。
  彼は、或時、東京帝国万歳と言ったことがあった。我々は東京帝国などという小さな帝国があることを其の時始めて知って吹き出したが、さういう間違いも、浜尾総長らしい、作らぬ愛嬌として珍重されたのである。青山胤通博士(当時の医学部長)などは、浜尾総長の演説ぶりを高く買って《是れ是れ、これに限る》と言って悦服していた。
  浜尾に比べると山川の演説や挨拶は、極めて簡潔で、底に鋭いひらめきがあった。軽い東北なまりが残っていたが、やゝ細みのバリトンで、静かに語る裡にも、腰に秋水の横われるのを感じさせた。少年期に白袴隊に加わる覚悟をきめながら、齢のいとけなさから、本意なくも加わり得なかった意気は死ぬまで消えなかった。彼は或日、述懐したことがあった。「自分は人爵も富も欲する者ではないのに、今日の生計にさして困りもせず、爵位まで頂いて、恐れ多いことであるが、もし伊藤・山県が今なお存命してゐたなら、恐らく枢密院の席も爵位も授けられなかったらう」と。彼が曾て、伊藤や山県が国家の大権を補佐する重臣でありながら、動もすれば、花柳の巷に出入して、その素行に慎みを欠くのを堂々と攻撃して、彼等の怒りを買ったことが一度ならずあったからであった。
  山川は罕に見る愛妻家であった。固り夫婦の間は古武士とその妻との如くであったが、妻の死に当って、亡き妻の胸に額を当てて、その名を呼んだのを目の当たりに見た僕の母は、《真に貴い涙であった》と繰り返して、僕等兄弟に語り聞かせた。

(東大名誉教授)